昭和五十六年九月二十三日 朝の御理解
御理解 第三十四節 「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、 帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の 言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨む ような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。あり がたく受けて帰れば、土産は舟にも車にも積めぬほどの神徳 がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷い のないことぞ。」
神の言う通りにする者が少ないというところを、自分の都合で神様にお伺いを立てる。そして、お伺いどおりに致しております。それとは全然違うんですね。私はもう家は神様まかせでもう親先生が言いなさるとおりにしとると言うのとは違う。
それはおかげを頂きたい、少しでもましなおかげを受けたいというのでお伺いを立てる。まあ、言うならば神様を便利屋さんのように使うとるというだけの事ですから神の言う通りというのはそういう事じゃない。どこまでも私はね、教えを頂いて実験していくという事、神の言うとおりにするという事はね、昨夜は今日の霊祭のお祭りの為に霊様達に皆今日のお祭りを受けられるべく一つ霊様にも構えを作っておいてもらわなきゃならない。慌てなさるような事じゃでけないというので、いつもおかげを頂きますが,いつも以前はこの合楽理念を申します以前はやっぱ三時間位かかって居りました。それが昨日なんかは丁度一時間で終わりました。もう、沢山霊様も台帳いっぱいに多くなってますけれども、いわゆるもう合楽理念何々は合楽理念を以てする他はない。霊様の助かりもね、あなた方の助かりも今、合楽で言われる合楽理念を以てする他ないのですよと言う事ですから、簡単なんです、ね。
だから、神の言う通りにするという事をね、教えを行ずるという、本気で行ずる場合には、例えば、これは、私共の教十年前等はどんなに考えても理不尽であったり、まあ、人情使うたらでけないような神様からのまあお知らせとか、お達しがありましたけれども、自分の顔を立てなければならんとかといったような人情を捨てきらなければでけないですね。まあ、笑われてもよい、馬鹿と言われてもよい、いや悪人のように言われてもよ、ね。神様の仰せには背むかれんという生き方。人情を使うならば親やら家内やらの言い分を聞いてやらなければどうにもでけないような時もあったけれども、私はそういう都度にまあ同じような意味の事を申しました事は、親がどんなに言うても、もう、親、あんた達両親は私にとって世界一、一番大切なものと言いやあんた達両親二人なんだよと、ね。家内にもね、一番愛していると言うなら、お前以外に愛している者はない程に愛しておっても、その愛している者が言う事もきかれない。大切と思われる親の言う事も聞かれない。とにかく今の私は、神様の仰せには背むかれんという生き方をしておるのだからね、そのつもりで辛抱もする信心してくれよというのが私のまあ生き方でした。
そこで人情使うとったら、人情使った方が皆が本当と思うだろうと思いますけれども、ね、そこを神情一筋で通りぬかせて頂いて、頂く教えはもう明日とは言わず今日頂いたら今日それを実行させて頂く。
まあだ、全教では今の皆さんが毎朝御祈念なさっておられる祈念詞を奉上しとるところはないと思いますけれども、私はその事のまだ本部の方から見られね、それで、福岡の方でそのまあ、そのこういう物がでけたという発表がなされました。
そしてあちらでそれを上げる稽古も、私の方では若先生と栄四郎と行きましたでしょうか、帰ってすぐここでそれを皆修行生一同で上げてみましたら、なか々調子もよいし内容がいわば、金光教独特のいわば、言葉が綴ってございます。今までの天津祝詞とか、大祓いというのは、金光教の内容とは全然反対の事やらね間違った事やら、只、唱え言葉として昔から上げられておるから、上げて来ただけの事でしたから、御神前に出てすぐその事を神様にお届けさせて頂きましたら神様から『朝顔は馬鹿みたいな花だよ根もない竹に命までもとからみつく』というね、これはたしか、安来節か何かの文句です。
今まで金光教が百年、これが金光教的じゃない、金光教的じゃない、いやむしろ、金光教の内容には反する事なんだと言いながら、やっぱそれを続けて来た。
所が一度(ひとたび)金光教的というか金光教の信心の内容を盛り込んだ唱え言葉がでけたのですから、もう、それが言うなら、間違いであった、替わりがでけたと言うから、もう、明くる日に私は全部あの皆さんにお配りしとるあれを印刷してもらってその明くる日から、実行致しております、ね。
神様から頂いた、大体は百年の記念祭を境に替わるのらしいのですけれども、はあ合楽は慌てもんだというふうに思われるかもしれませんけれども、神様がそういうて下さったんだから、そこに人情を使わないもうあっと言う間に、これに切り替えた。 私の生き方はみんなそうです、ね。言うなら転身が早いです誰よりも。今まで、これが本当だと思うておった事、はあこれは違ってたんだと神様がお気付頂いたりお知らせを頂くと、それにさあっとこう切り替えていくんです。
だから限りなく合楽の言うならば、合楽理念が完璧に向かってまあ、進んで行っておる。成就していっておるという事も、そういうこれが本当だという事になったらそれにさあっと替えていく。神様から表行より心行というてその意味がわからしてもらったら、それこそ、どんな偉い先生でも、ついこの頃も大変有名な先生が表行心行についてお話をしておられましたが、表行はしてはならんとは書ちゃあない。表行より心行をせよとあるからね、表行もしてよいけれども、心行をせにゃいかんと言うふうに説いてあります。
私共もそう思うてきたんです。本当に表行せんなら骨ぬきになるような感じさえしたんです。そりだったらそこの何々様だって同じ事になるわけ。なる程金光大神の教えの独自性といったようなものをそこに感じてわかったから、もう、私は、即刻、表行全廃でした。沢山の修行生が断食をしたり、水をかぶったりしてましたけども、そういう事をするともう合楽、私が破門にするという、もう家の弟子じゃないという位にね、神の言う事にもうそれこそ私は徹底して、即刻それを改めていこうとする姿勢それが私はだんだんおかげを頂いてきた元であるというふうに思う。
今日の御理解を頂いて、神の言う通りにする者が少ないという事を私は、神様にお願いしてお伺いして神様のおっしゃる通りしとりますというような生き方で教えに忠実じゃないならば、そりゃ神の言う事を聞いておるこつじゃあない。神様を便利屋さんに使うとるだけの事なんだ。
今、今日、久留米に集金に行こうと思いよりますがどうでしょうかち、そりゃ今日は行くがよかろう、行かんがよかろ、行ったら行き損になるじゃならんからお伺いするそういうお伺いをそのまま聞いておるというのでは私は神の言う通りじゃないと思うです、ね。神様を便利屋さんに使うとるようなもん。なら、便利屋さんにもなって下さいます神様は。けれども、肝心要なのは神様の心である。言うなら、心をわからせてもらう、教えを頂いて、ね。それを実験実証していってそこに喜びの生活に入らせて頂いかにゃあならない。行く先は地獄の果てか極楽かわからないけれども、喜びだけは持って行きたい、ね。その信心の喜びをもって行かなければ、あの世は闇だと言われるのですから、この世も闇ですね。大体はこの世は、歌の文句じゃないけどこの世は闇だと、本当にお先真暗な感じですけれども、あの世はいよいよ闇なんだ。
こちらから、言うならば、生前心に光を頂いて、光を持って行かなければどうもしょうのない所なんだ魂の世界というのは。これは私があの霊様の関係の時にこれを、いよいよ痛感する思いが深くなるばっかりですけれども、本当にこの世はあの世の為にあるんだという事を実感致します。この世はその光を頂く事の為にあるのです。
信心の喜びというのは言うならば、神様のいう事を聞くという事は、神様の御教えを体してそれを生活の上に行じていくという生き方から行じていっている中に、いつの間にか磨かなければ行じられぬ、改まらなければ行じられないのです。御教えはね だから本心の玉を磨く事も改まる事をでける神様の御教えを行じていきよる中にねそれこそまあ、合楽理念を以てすると誰でもその気になればでけるように説いてあるのですから、ところがやはり我が出て我情が出て、ね、やっぱり神様よりか人間の方が偉かごて思うとるような考え方があります。これではね、本当のおかげにも力にもなりませんです。なら、私の修行中からこう思うてみて、ここはもう人情でしなければ、言うならば評判が悪いならば、私は人情使うならばもうどんなにでも人情使えるところを人情を使いませんから、言うならば、悪人のように言うたら間違っておるようにいわれるけれども、いわゆる神様の仰せには背むかれんという生き方ですから、ね。ですから、皆さんがここん所であのう御神意をお伺いして御神意どおりに致しとりますという事は決して神様のいうとおり、言う事聞いておるという事にはなりません。神の言う事はとおっしゃるのは、いわゆる日々頂く御理解をそのまま難しい事は何にもないのですからね、その事でもその事を本気で今日は、この生き方でいこうとね、最近今度の婦人会のあの大会のテ-マが「不平不足を言わんですむ信心生活を進めよ」かね。いうあのう頂いてこのいく中に皆さんがこれに取り組まれて毎日お届けがあるのにびっくりするくらいです。
今までこんな容易い事をどうして皆に感じれなかっただろか、それで皆さん今度大会の時にまあ、班別懇談がある時にはもうこの体験を話さして頂きますという人がいくらもあります。今日一日不平を思わず不足を言わんという事に本気で取り組みました。いわゆる、婦人大会まではと心に決めました。もう婦人大会までそれをやったら今度は止められんごとなるです。本当です。教えというものはもう行じたらね、もう体験味わう、味わったらもうやめられんです。次から次と素晴らしい教えが身についてくる楽しみと喜びがそれが信心の喜びです。
その喜びをね、ここで頂いて光ともなり、その喜びをあの世に持って行かなきゃならんという事になるのです、ね。だから、確か、この世はあのよの為にあるのだと、どんなに有難うそうに有難いと言うておっても教えを行せず生まれてくる有難い、只おかげを受けて有難い有難いというのなら、絶対ほんなもんじゃあありませんから、向こうの方では通用しないですね。
どうぞ。